アナログおじさんのPC奮闘記 – なんトラ143

 ツイッター(TWITTER)なるものを下の息子の勧めでやり始めております。
 皆さんのつぶやきを見ていると、かなり意識して書くという感じでやられている方と、まったくその時に思うがままに、吐いた言葉を連ねているタイプがあります。どちらもそれぞれ人柄がにじみ出ていて、なかなか味わい深いものであります。

 でも、たとえば雑誌に書く原稿、HPに書く原稿、ブログに書く原稿というものはそれなりにボリュームがありますし、推敲に推敲を重ねますのでかなりの力を込めないと完成いたしません。そこへ行くとツイッターは僅か140字で完結しますから気持ち的には非常に気が楽といえますし、書きやすいし、感情をぶつけ易いという利点があります。
 
そして、ハンドルネームと言いますか、ツイッターネームで書かれていて分からない方も多いのですが、堂々と自らの名前や、写真を公表しておられる方も多いので、何をつぶやくのかを期待して必ずそれを読むための“フォロー”するという方法もある訳です。
 ですから著名人の方をフォローすると必ずつぶやいたことは送られてきますから、どんな考え方をしているかがわかるということです。著名人は自分の考えをそこに書くということで、皆にそれを知ってもらえるという効果が出るので、影響力のある方法だと思います。政治家が選挙の時に多用して票集めの効果が上がったということを耳にしたこともあります。

 ITの時代に突入していろいろな意見の発表の場が出てきました。ホームページ、そしてブログ、仲間に自分の日記を公開するmixiなど次から次へと新手のツールが出てくるので対応が大変です。ボクは積極的にそれらを取り入れる方ではありませんが、大体回りにいるhysteriaの若者に教えてもらって取り入れます。
 年代的にはPCが出てきて仕事の中に取り入れられてきても、若者にまかせっきりで「これやっておいて!」ですんでしまったものですから、フリーランスになってからかなり苦労しました。
原稿ひとつとっても万年筆で原稿用紙に書いたほうが早いなどと言って、しばらくの間パソコンで原稿を打つことをしませんでしたので、おそらく月刊バスケのライター陣の中でも原稿をメールで送るのは最後の方ではなかったかと思います。
 担当編集者には本当に多大なる迷惑をおかけしておりましたなぁ。

 相変わらずわからないことだらけで日夜パソコンと格闘していますが、考えてみると節目節目では我が家にステイしていたドイツ、オランダ、台湾のせがれどもが常にアナログなボクに細かい説明をしてくれて、使えるようにしてくれていましたし、めちゃくちゃに使っていたものを時々日本に帰ってくると全部綺麗に整理してくれて、そして最新のものをダウンロードしていってくれます。現在、ドイツ・マイクとオランダ・レムコはその世界のトップをひた走るアメリカのgoogleのプログラマーですし、台湾・マイクは母国の精華大学(日本で言えば東京工業大に当たるらしい)の研究者をしていますから、師匠には恵まれているようです。

 駄目な、出来の悪い弟子には神様が良い先生を付けてくださるようです。
 これまでの日本の教育は歳上の人が若き人を教えるという図式で成り立っていました。しかし、IT関連の物はすべてといってよいほど若き人に教えられるという逆転現象です。PCしかり、携帯しかり…。「老いては子に従い」ということなのでしょう。まだまだしばらくは奮闘を続けることになりそうです。若き先輩よろしくお願いいたします。

 それでは次回の“なんトラ”まで、ごきげんよう!


「お汁粉に酔った、ハヤブサの哲」 – なんトラ142

 8月29日に小説作家の三浦哲郎さんが亡くなられました。
 文学誌の編集をしていた訳ではありませんが、編集者としては三浦さんのご高名はかねがねお聞きしてはいました。60年代の中盤に放送されたNHK朝の連続テレビ小説の“繭子ひとり”の原作者であることくらいしか知りませんでした。
 しかし、月刊バスケの創刊の当初大変にお世話になった日本バスケットボール協会の広報委員長の内海淳さんから「シマちゃん、こんな面白いエッセイがあるから読んでみて」と渡されたのが三浦哲郎さんの“笹船日記”と言う短編エッセイ集でした。

 エッセイは十何編書かれておりましたが、中でもひとつだけバスケットボールに関することに触れたものがあったのです。それは「お汁粉に酔う」と言うタイトルでした。それを内海さんが伝えたかったのでしょうね。
 なかなか洒脱な筆致で三浦さんの八戸高校籠球部時代のエピソードが書かれておりました。バスケットボールの周辺のことを書いておられるのですが、芥川賞作家が書くとここまでなるのか? という素晴らしく読ませてくれるものでした。その時に思ったことはいつか、どこかの機会で月刊バスケの中に書いてもらいたいものだ、ということでした。

 それから数年、ついにその時がやってきました。1978年、大津インターハイの臨時増刊号を初めて発行することになったのです。通常であればクラスマガジンと言われるスポーツ専門誌である我が月刊バスケ如きが原稿をお願いできるような方ではありません。でも、ボクには確信がありました。大作家でも、自分が若き頃夢中になってやっていたスポーツのことであれば絶対にイヤとは言わないだろうと。
 しかし、連絡先ひとつ分かっていません。
そこで文芸春秋にお勤めであり“文学界”の編集長を務めたこともある母校のN先輩に不躾ながらいきなり連絡先をお聞きしたのです。そうしたところN先輩は「へぇ~、万年筆より重い物は持ったこともないような三浦さんがバスケットやっていたなんて嘘みたいだなぁ」などと面白がってくださったので、ついでに「原稿料はどの位お払いしたら良いのでしょう? 我が編集部とはまるでランクの違う方なので見当がつかないのでご教授ください」と言ったところ「君のところが払える額で問題ないよ、なにしろ自分の大好きなことを書くんだから、文句は言わないさ」と言うレクチャーをしてくださいました。
 お願いの電話をする時にはやはり、かなり緊張しました。でも、首尾よく快諾してくだされました。そして、原稿を取りに伺ったときにご尊顔を拝することが出来たのです。

 タイトルは「はやぶさの哲」。
 高校時代のニックネームで、お会いした時に少しだけお話した時に「僕は今は太ってまん丸だけど、昔はスラッとしていてチームで一番速かったんだ、だから付いたんだ」とちょっと得意げなお顔をされたのを思い出します。

 昭和22年、第二次世界大戦終戦直後で“高校総体”はなく、“国民体育大会”が高校生の唯一の大会でした。場所は石川県金沢市。そして正確に言えばまだ、高校ではなく中等大会でした。当時は食糧事情も酷かったためお米を持って遠征したのだそうです。そういえばボクも林間学校へはお米持参でしたね。
 そして八戸中学はすぐに負けるだろうということでお米は僅かしか持たずに行ったそうです。でも、コーチは選手を頑張らせるために試合前日、宿の近くにある甘味処(お汁粉屋さん)でお汁粉をご馳走したそうです。戦争中は甘い物など贅沢品でしたから食べられませんでしたから、本当に美味しかったと三浦さんは書いております。皆が食べ終わって幸せそうな顔をしていたら、「明日勝ったら、また食べさせてやる」と言ったそうです。
 そうしたらあれよあれよと勝ち進み、準決勝まで勝ち進んでしまったのです。予定外の勝利ですから宿代もなくなり、引率の先生は学校に「カッタ、カネオクレタノム」と言う電報を毎日打っていたそうです。
残念ながら優勝した札幌一中に負け決勝には進めず、3位だったのですが4日間毎日お汁粉だったので、さすがに負けた時はほっとした。
というようなほのぼのとした原稿でした。なんとなくタイトルが理解できる情景です。60数年前も今も、同じような光景は見られることでしょう。物の多少こそあれ、です。
三浦大先輩に“合掌”です。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。