「お汁粉に酔った、ハヤブサの哲」 – なんトラ142

 8月29日に小説作家の三浦哲郎さんが亡くなられました。
 文学誌の編集をしていた訳ではありませんが、編集者としては三浦さんのご高名はかねがねお聞きしてはいました。60年代の中盤に放送されたNHK朝の連続テレビ小説の“繭子ひとり”の原作者であることくらいしか知りませんでした。
 しかし、月刊バスケの創刊の当初大変にお世話になった日本バスケットボール協会の広報委員長の内海淳さんから「シマちゃん、こんな面白いエッセイがあるから読んでみて」と渡されたのが三浦哲郎さんの“笹船日記”と言う短編エッセイ集でした。

 エッセイは十何編書かれておりましたが、中でもひとつだけバスケットボールに関することに触れたものがあったのです。それは「お汁粉に酔う」と言うタイトルでした。それを内海さんが伝えたかったのでしょうね。
 なかなか洒脱な筆致で三浦さんの八戸高校籠球部時代のエピソードが書かれておりました。バスケットボールの周辺のことを書いておられるのですが、芥川賞作家が書くとここまでなるのか? という素晴らしく読ませてくれるものでした。その時に思ったことはいつか、どこかの機会で月刊バスケの中に書いてもらいたいものだ、ということでした。

 それから数年、ついにその時がやってきました。1978年、大津インターハイの臨時増刊号を初めて発行することになったのです。通常であればクラスマガジンと言われるスポーツ専門誌である我が月刊バスケ如きが原稿をお願いできるような方ではありません。でも、ボクには確信がありました。大作家でも、自分が若き頃夢中になってやっていたスポーツのことであれば絶対にイヤとは言わないだろうと。
 しかし、連絡先ひとつ分かっていません。
そこで文芸春秋にお勤めであり“文学界”の編集長を務めたこともある母校のN先輩に不躾ながらいきなり連絡先をお聞きしたのです。そうしたところN先輩は「へぇ~、万年筆より重い物は持ったこともないような三浦さんがバスケットやっていたなんて嘘みたいだなぁ」などと面白がってくださったので、ついでに「原稿料はどの位お払いしたら良いのでしょう? 我が編集部とはまるでランクの違う方なので見当がつかないのでご教授ください」と言ったところ「君のところが払える額で問題ないよ、なにしろ自分の大好きなことを書くんだから、文句は言わないさ」と言うレクチャーをしてくださいました。
 お願いの電話をする時にはやはり、かなり緊張しました。でも、首尾よく快諾してくだされました。そして、原稿を取りに伺ったときにご尊顔を拝することが出来たのです。

 タイトルは「はやぶさの哲」。
 高校時代のニックネームで、お会いした時に少しだけお話した時に「僕は今は太ってまん丸だけど、昔はスラッとしていてチームで一番速かったんだ、だから付いたんだ」とちょっと得意げなお顔をされたのを思い出します。

 昭和22年、第二次世界大戦終戦直後で“高校総体”はなく、“国民体育大会”が高校生の唯一の大会でした。場所は石川県金沢市。そして正確に言えばまだ、高校ではなく中等大会でした。当時は食糧事情も酷かったためお米を持って遠征したのだそうです。そういえばボクも林間学校へはお米持参でしたね。
 そして八戸中学はすぐに負けるだろうということでお米は僅かしか持たずに行ったそうです。でも、コーチは選手を頑張らせるために試合前日、宿の近くにある甘味処(お汁粉屋さん)でお汁粉をご馳走したそうです。戦争中は甘い物など贅沢品でしたから食べられませんでしたから、本当に美味しかったと三浦さんは書いております。皆が食べ終わって幸せそうな顔をしていたら、「明日勝ったら、また食べさせてやる」と言ったそうです。
 そうしたらあれよあれよと勝ち進み、準決勝まで勝ち進んでしまったのです。予定外の勝利ですから宿代もなくなり、引率の先生は学校に「カッタ、カネオクレタノム」と言う電報を毎日打っていたそうです。
残念ながら優勝した札幌一中に負け決勝には進めず、3位だったのですが4日間毎日お汁粉だったので、さすがに負けた時はほっとした。
というようなほのぼのとした原稿でした。なんとなくタイトルが理解できる情景です。60数年前も今も、同じような光景は見られることでしょう。物の多少こそあれ、です。
三浦大先輩に“合掌”です。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。