ボクは原稿を書くときには大まかな題材を決めて、ず~っと考えています。前月号の入稿をした後からすぐに考え始めます。どちらかというと大雑把な方でありながら、書きたいことや、やりたいことはなかなかかんたんに出来るものではないと思う慎重派なので、ぎりぎりまで執り掛かれないことが多いのです。悪い癖です。

8月6日から13日まで、マニラ(フィリピン)に行ってヤング・ナショナルチームを見て来ましたのでそれについて報告しようと思っていたのですが、9月7日のブエノスアイレス(アルゼンチン)のIOCの総会でTOKYO 2020が決まってしまったので、急遽そちらにしようとchange mind してしまいました。今回はその悪癖の遅筆が、幸いしたのかもしれません。まぁ、なるようにはなるものです。

いろいろと切実な問題を抱えているわが日本です。とくに「福島の放射能の問題解決と宮城、岩手の被災地の復興が先でしょ!」という意見はまったくその通りだと思います。

でも、そんな条件を抜きでとにかく良かった、TOKYO 2020が決まって、と思っています。阿部総理大臣もIOCのプレゼンテーションの場で世界にはっきりと宣言したのですからやらなければいけないんです。覚悟を決めてです。両方ともしっかりと…。やれなければ代えれば良いんです。

招致委員会の方々はしっかりと良い仕事をしました。時々変なことを言ってしまう人も約1名いましたが“Good Job!”でした。今後のことは、継ぎのレベルにバトンタッチされ現場サイドに下りてくるのでしょうが、新競技場やインフラのことはさておいて、それぞれの実施種目の競技団体は7年後に向かって努力を積み上げていくことになります。

現時点である程度の実績を上げている種目は良いのですが、わがバスケットボールは褌(ふんどし)を締めなおしてかからねばなりません。なんていったって先のマニラでのアジア選手権では9位という成績なのですから。極端なことをいえば30歳以上の選手は選考の対象から外れて来るのではないかと思うのです。今、18歳の渡辺雄太が7年後には25歳で一番脂の乗り切った年頃になるのです。しかし、本当の目標は東京後の恒常的なオリンピック、ワールドカップへの出場なのです。

この7年間をしっかり強化して2024年のオリンピックにはアジアのトップで通過して出場するくらいの力を持って欲しいものです。招致委員会もオールジャパンで臨んでよい結果を出すことに成功しました。バスケットボール界もオールジャパンで臨まざるを得ない時に来たといえます。NBLだbjだなどと角を突き合わせている時ではないのです。大同団結して臨まなければいけません。何時やるの…という時なのです。

1964年の東京・オリンピックの時にボクは18歳でした。中学からスポーツを一生懸命に始めたボクにとってオリンピックには素晴らしい夢を見せてもらったと言えます。いろいろな競技を観戦しました。バレーボール男女、バスケットボール、ホッケー、陸上競技、自分のやっていたバレーボール以外はルールも詳しく分かりませんでしたが、楽しかったことだけは覚えています。この“白昼夢”の存在がボクの今日までスポーツにかかわった原動力となっていると思います。

身体も小さく、秀でた所を探すのが大変なボクの最高の成績は中学の都大会ベスト8です。全国大会など遠~い存在でした。でも、しつこく好きであるというものを大切にして追い求めているとなんとかなるようです。人生ってそれほど悪いものではなさそうです。

それからあっという間に56年ですから、足し算をすれば容易に年齢は知れてしまいますが、64年の時と現在は置かれている周囲の状況はかなり違います。テクノロジーは凄い進歩ですが、失われつつある人のつながりの復活が大きくクローズアップされている今、かなりわれわれ民間の力が必要になるのではと感じます。

これこそ、われわれ一般のファンがどのようにオリンピックと関わるか? という答えなのだと思います。最前線でゲームをする体制を整える方々には出来ないことなのです。諸外国から来る人々にとって楽しいもの、それは競技だけではないのです。日本って楽しい、面白いと世界に思わせ、知らせねばならないのです。これから7年の間、何千万人、いや何億人かの外国の人々が来るのですから。

そんな“おもてなし”が出来たらわれわれは本物のメダルを獲得したといえるでしょう。

それでは次号の“なんトラ”まで、ごきげんよう。