今、単行本の編集を必死になってやっています。編集というよりもリライトに近い作業に追いまくられているのです。
分量はA4のテキストで40字x36行(1440字)で260枚近く400字詰めの原稿用紙で言うと940枚にはなります。膨大な量です。
内容は“薩摩藩と宝暦治水事業”についてなのです。スポーツものならばお手の物ですが、このような歴史物となると門外漢でありますから、ひとつひとつを辞書に当たっていかねばなりませんし、旧字や江戸時代(宝暦とは1751年から1764年の年代で江戸中期にあたりますから、役260~270年前のこと)の言葉使いもたくさん出てきます。
そんな訳ですから全然進みません。このクソ暑い真夏に冷や汗物でPCに向かっている毎日です。
書いた人は義兄、うちの奥さんの一番上のお兄さんということになります。20歳年上の鹿児島生まれの薩摩人で、2、3年前の大河ドラマの“篤姫”に関して自分の感ずる所をしたためて知り合いに配ったりしていましたが、それが評判良かったことと、薩摩の偉人は西郷隆盛や大久保利通だけではないんだ、というところから平田靭負(ひらたゆきえ)翁についてリサーチし始めたのです。
そしてまとめはじめて、ある程度の量が書けたときにボクの所に持ってきたのです。かなりの量の参考資料を集め、読み下しつつ書いたものなので読ませて頂いたところ、なかなか面白い。そして書き手の、なぜ書くに到ったかと言うフィロソフィーがしっかりしていたので凄く引き付けられたのです。
「頑張って書いてください。出来上がったらまた、読ませてくださいね」と話した後に相談され、お手伝いすることになってしまったのです。
「ちょっと話が大きくなりすぎて収拾が付かなくなってしまったんだけれど、どうしたものか?」
ということです。
宝暦の治水とは、愛知県は名古屋近辺の木曽川、長良川、揖斐川というかなり大きな川の大工事のことを言います。この3つの川は俗に“暴れ川”と言われており、美濃、尾張、伊勢地方の人々は大雨や台風があると、いつも堤防が決壊しては大災害にあっていたのです。
江戸時代の中期、その修復を徳川幕府は九州の外様の雄藩、薩摩に命じたのです。幕府にたてつく藩の筆頭のように見られていた薩摩は戦国時代より国替えがなく、77万石の大大名でしたので参勤交代+御手伝い普請(どちらももの凄くお金が掛かります)をやらされた訳なのです。
遠くにあるこの3つの川の普請に、300里、1200kmも離れた薩摩の人々がやらされるというまったく理不尽といっていい、凄まじい仕事だったのです。役1000人の藩士が駐在し、約100人近くが割腹や疫病で倒れました。そして40万両(1両を5万円と換算して200億円)と言う多額の費用を費やした事業だったのです。
そして、5月末には桑名を基点に史実を追う取材旅行も試みました。
言ってみれば義兄の情熱から始まった大事業の御手伝い普請にどんどんはまって行っています。
しかし実際に揖斐、長良、木曽の三川を見ましたがその水量と、川幅の広いこと。国道1号線の伊勢大橋の真ん中あたりから上流に向かった道は両側(揖斐、長良川)が満々とした水をたたえており、まるで海の中を走っているような錯覚さえ起す道筋です。そしてその先にある油島千本松の素晴らしいこと。薩摩義士の苦闘と偉業を物語るように松ヶ枝を交えています。
ボクの仕事もあと少しです。なんとか仕上げて著者校を出して少しでも前に進めるようにしたいものです。出来上がりましたらまた皆様にお知らせしたいと思います。
そう、まず薩摩人の井上先生に読んでもらわねばなりませんね。
それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。