1月17日、プロ野球の巨人、阪神などで活躍した小林繁さんが亡くなりました。57歳という早世でした。
私にとっては非常に思いで深い選手であり、なぜかず~っと気になる存在だったのです。というのはあの有名な元巨人の江川卓投手との“空白の一日”の騒動でのトレードで阪神に移籍した方だったからです。
痩身で右横手投げの独特な、いや変則なフォームで活躍、76、77年と2年連続で18勝をあげて巨人の連覇に大きな働きをみせた、当時のエース級の選手でした。
そして“空白の一日”騒動で大きく小林さんの人生は揺れたのです。この“空白の一日”というのを説明すると、77年のドラフトでクラウンライター(現西武)から1位指名を受けた江川投手は入団拒否してアメリカ留学をしていたのですが、78年のドラフト前日に巨人と契約をしたのです。78年には球団は西武に引き継がれていたのですが、交渉権は20日に喪失、21日は江川投手を拘束できない一日と巨人は主張したわけなのです。
リーグはこの契約を無効としたため、巨人はその年のドラフトをボイコット、結果として阪神が交渉権を得たのです。その後もかなりもめましたがコミッショナー裁定で、まず阪神が江川投手と契約、その後79年2月に巨人小林投手とトレードをしたのです。
江川投手は作新学院高校時代に甲子園で活躍、豪速球投手としてならして巨人入りを熱望しましたが他チームに指名されたため法政大学に進学、その5年後に強引に希望球団に入団したのです。
今から30年以上前のことですが、この騒動は私にとっても自分のスポーツに対する考え方を変える大きな事件でした。
巨人-阪神間のトレードと言う結末を見てまず思ったのは「アメリカであれば絶対にこのような大騒動にはなりようがない。なぜならドラフト権のトレードと言うものがルール化されているからだ」と。月刊バスケを創刊して6年はたっていましたからNBAという組織も勉強していましたし、アメリカのスポーツ界の考え方も理解できていましたので、私の頭の中も合理的な考えになっていたのでしょう。
そしてもう一つ、日本のプロ野球の成り立ちがそうだとしてもあまりの巨人の横暴と言うものが目に付いてしまったのです。結果、私はプロ野球というもののファンを辞めました。私が辞めても日本のプロ野球にとってどうってことはないのですが、ともあれ消極的拒絶を行ったのです。
でも、いまだに続いていますねぇ巨人は。ドラフトの逆指名を制度化したり、各チームの4番打者ばかり集めたり、ドラフトをなくそうなどと工作したり、自分のチームだけが良ければ良いという考えが前面に出ています。ナベツネこと渡邉恒雄元オーナーなどその権化みたいなものでしょう。だからますます私の拒絶は継続するのです。彼の言動や行動を見るたびに、日本のスポーツ文化度の低さが感じられて仕方ありません。それを思うにつけつくづくロサンジェルス・レイカーズのオーナーのジェリー・バス氏が話してくれたことを思い出します。
「レイカーズを強くしたいということは私の夢であるとともに、仕事でもあります。でもレイカーズが勝つということは、負けてくれるチームがいなければならないのです。ですからリーグのチームはすべて運命共同体なのです。非常に大事な仲間なのです」。
と言っておりました。これが、プロの発言ですね。アメリカのプロリーグはすべてこの考え方なのです。
小林繁さんもトレードの記者会見の時に、
「このトレードが良かったのか、そうでなかったのかは私が次に行ったチームでの成績で判断して欲しい」というような意味のことを言っていたのを思い出します。この言葉もプロであることを感じさせてくれます。
そして阪神での最初のシーズンは22勝をあげて最多勝のタイトルを獲得、同時に2度目の最優秀投手賞(沢村賞)を受けたのです。83年に引退するまでに374試合で139勝95敗17セーブ防御率3.18。
昨年の日ハムの2軍コーチから、今年は1軍に昇格していた矢先だったのです。
非常に大事な方を亡くしたと感じたものです。しかし、これも人生。私のような平凡な人間は心して精一杯トライする人生をし続けなければいけないのだなぁ、と改めて思いました。謹んで冥福を祈ります。合掌。
それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。