2人のNBAベストドレッサーコーチ – なんトラ178

◆「私が退室する時に『また会おう』と言った。それが彼を見た最後だった。私は決して忘れない。この賞を受賞することはとても光栄だ」(ヒート社長のパット・ライリー)
チャック・デイリー賞を受賞して09年にデイリーを病室に見舞った時を思い出して。同賞は全米コーチ協会が選考する。「デイリーはいつもこざっぱりとしてスタイリッシュだった。私たちは服装についてあれこれと話すのが大好きだった」
◆「彼の存在はチームにとって大きい。コーチとして、エグゼクティブとして多くの経験がある」(ヒートのレブロン・ジェームズ)
「チャック・デイリーはいつもライリーのことをベストの中のベストだ、と賞賛していた」(マーベリックスHCのリック・カーライル)
チャック・デイリー賞を受賞したパット・ライリーを賞賛して。カーライルはデイリーの下でアシスタントを勤めたことがあった。

この2つの文章は私がお世話役をさせていただいているバスケ好きの仲間の集まるHOOPHYSTERIAというサークルで、毎月発行している会報BULLETINの今月号のQUOTEという企画の中のものです。NBAをはじめNCAA、そして日本のバスケと、あらゆる興味のある題材にはかなり突っ込んだ内容の企画の原稿があります。すべて、メンバーの皆さんが一生懸命に調べて書いてくださっています。
そんな中に書かれたチャック・デイリーとパット・ライリー、80年代から90年代にかけてのNBAはこの2人を抜きには語ることは出来ません。
まず、パット・ライリーがレイカーズのショウタイム・バスケットボールをマジック・ジョンソン、カリーム・アブドゥル=ジャバーらを中心に確立させました。1980、82、85年に優勝。そしてその全盛期が1987、88年のバック・トゥー・バック(2連覇)です。
僕にとってはその他のノーム・ニクソン、ジェームズ・ウォージー、マイケル・クーパー、AC・グリーン、カート・ランビス、バイロン・スコットなどの名前は資料を調べるまでもなくスラスラと出てきます。みな華やかでアスレティシズムにあふれていましたね。
 そんな中でもヘッドコーチのライリーは本当にカッコ良かった。いつもアルマーニのスーツでビシッときめて金髪をオールバックにした姿は惚れ惚れと見とれていました。チャック・デイリーが「ベストの中のベストだ」と絶賛して当然だと思います。
 このデイリーの発言には2つの意味が含まれていたものと思われます。1つは勝利の方程式を確立したこと。もう1つはそのファッショナブルさだったと思います。
プロはプロを知ると言いますが、このチャック・デイリー、第2次世界大戦に応酬されていますが、その戦後の占領時の日本に来て軍の仕事をしていたのがその理由です。
 彼はものすごい日本通であり、日本人の真面目さや器用さを良く知っていました。オリジナルドリームチームを率いて金メダルを奪還したあと、1993年に“チャンピオンシップ・キャンプ”で日本の高校生に指導のため来日しました。
その時に「今日の日本の自動車や家電、ITの発展は予想通りだよ」と言ったのです。ですから「なぜ、そんなことが分かったのですか?」と聞くと「僕はおしゃれが大好きで日本に駐留していた時、カシミヤのスーツやコートを良く誂(あつら)えたんだ。何しろ1ドルが360円位だったから20代の僕の軍の給料で無理なく作れたんだ。その時に日本人のテイラーの職人のすばらしい技術に触れたんだよ、だからなのさ」と答えたのです。
確かにライリーほどのスタイリッシュさはなかったものの、質の良い上品なしつらえのジャケットをいつも着ていましたっけ。
レイカーズが勝った後、次はデイリーのバッドボーイズのピストンズのバック・トゥー・バックでした。アイザイア・トーマス、ジョー・デューマース、デニス・ロドマン、ビル・レインビアー、ジョン・サリー等の個性あふるるプレイヤーをチームとして機能させる手腕は見事でした。
おそらくパット・ライリーが年上であれば「デイリーこそベストの中のベストだ」といったに違いありません。同じ嗜好を持った二人の戦士の縁と友情は深かったのですね。
嬉しい話です。二人の名前が出たとたんにデイリーのインタビューの内容を思い出しました。こんな友情もあるんですね。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


嬉しい、10年ぶりの再会。 – なんトラ177

2012年5月5日現在、199cm、78kg。
日本人バスケットボール・プレイヤーとしては大きい部類に入ることになるでしょう。でも、高校3年生になったばかりであり、まだ身長が伸びているということですので、どこまで行くんでしょう。渡邊雄太君は。
今月はそんな前途有望な青年?、いやまだ少年?のお話です。
通常、日本人の身長の伸びはもちろんそれぞれのDNAによって異なってくるのでしょうが中学生のころに10~15cmほど成長して、171cm位になると言われています。女性は12、3cm低い158cm位。これが現在の日本人の平均身長といえましょう。
まぁ、高校生になっても伸びる子はいますが、大体が中学生のころに伸びきってしまいます。バスケットボールをやろうとする子は背が大きかったから勧められてとか、背が大きくなりたいからということで部活に入部してくる子が多いと言えます。これは洋の東西を問わず同じようなものと考えてよいと思います。
しかし、この199cmの渡邊雄太君は違いました。小学生の頃は160cmに届かず、中学2年生の頃は175cm、3年生の夏には母親の久美(旧姓久保田、元シャンソン化粧品で活躍、ナショナルチームのキャプテン)さんをようやく抜き、180cmを越えた位の中学バスケのプレイヤーであれば普通よりちょっと大きいかなという程度でした。しかし、ここから尽誠学園へ入学する頃まで毎月1cm伸びていたと言います。入学試験のときに久しぶりに会ったまわりは「ウオッ! でかくなってる!」とびっくりしたそうです。
中3まで170cm台ということはそれまでのポジションはポイントガードかシューティングガード。ボール運びとパス、そしてタイミングを見たシュート中心のプレイスタイルです、それがここに来て生きてきました。高校に入ってからもさらに伸びてメジャーデビュー(こんな言葉がふさわしいかどうかは分からんが…)の2年生時の昨年のウインターカップ(WC)では無印だっただけに、周囲をそのプレイ振りでびっくりさせたのは記憶に新しい所です。
ボクは彼の成長の仕方にアメリカ人の子供たちの成長のパターンを見ました。アメリカにはよく2m以上でもボールハンドリングが上手くガードの出来るプレイヤーが出てきます。これは高校高学年から急に成長すると言う特性から出てくるものと思われます。古くはマジック・ジョンソンなどは良い例で、最近では2mのガードも当たり前の状態です。日本のように子供の頃に大きければセンターと言う考え方で行っているとマジックや雄太君のようなプレイヤーはまず現れてはきませんね。
若き友人のH君が能代カップを一緒に見ている時、面白い表現をしました。[雄太はウインターカップの時より顔が小さくなっていますよ]と言うのです。おそらく冬以来のトレーニングが生きてきて肩幅や胸板が厚くなってきているからなのでしょう。
小学校4、5年生の150cm位の子が高松のファイブスターキャンプに来て一生懸命ハンドリングやドリブルをやっていたのはつい昨日のことのようです。何時大きくなるか分からないと言う良い例が雄太君でしょう。5番(センター)のプレイはいつでも覚えられます。彼を見ていると若年時にしか取得できないプレイをミニの指導者の方にはぜひ、教えておいて欲しいと思ってしまいます。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


こんなことってあるんですね。 – なんトラ176

 今回の“なんトラ”は昨年、秋田の北部をカバーするローカル新聞“北羽新報”の記事の転載をしてみたいと思います。前回のミュージアムのお知らせととも に、なぜそうなったかということが上手くまとめていただけていた記事だったのでそう思ったのです。そしてそれがひょんな方向に波及して…。
●新聞記事より(秋田・北羽新報。2011.9.2)
☆この人にインタビュー
バスケの街に“恩返し”
人を呼び込む力になれば
 バスケットボール関連の貴重な資料を能代市に寄贈したバスケ 専門誌“月刊バスケットボール”元編集長の島本和彦さん(65)。寄贈品は来た東北インターハイ期間中にしない2か所に展示され、バスケファンの話題と なった。寄贈にこめられた思いやバスケの街・能代への感想を聞いた。(聞き手・大柄沙織)
――600点以上のバスケ関連資料を市に寄贈されました。そのきっかけは。
 「月刊バスケ時代は能代工高元監督の加藤広志先生と一緒に楽しい仕事をさせてもらった。仕事で集めたこれらの資料をどうしようかと考えた時に、当時お世 話になったのが能代工のOBだったり、能代の人たちだったので何か恩返しができればと思い寄贈した」
 能代はバスケが好きな人が集まってくるとてもよい場所。私の周りのバスケ好きも『一度、能代に行ってみたい』という人がたくさんいる。能代カップの際に は全国からたくさんの人が集まって来るが、試合だけ、能代工だけじゃなくもう一押し、能代に人を呼び込む何かが欲しい。バスケ関連の資料を集めることで誰 かが能代に来てくれるのではないかと。そういったものに力になれればと思っている」

――今回の展示に思うことは。
 「自分が必要で集めてきたものをもう一度皆さんに見てもらえたということは凄く幸せ。書籍類が多いがリトグラフも何点かある。日本でバスケットボールを 主題にした絵はあまりない。米国には、ここまでこういう風に表すのかというようなものがある。リトグラフはロサンジェルス・レイカーズのオーナーが持って いたものをもらった。ボク一人で眺めていてもうれしいけど、皆さんに見てもらいたい」

――島本さんにとって能代とは。
 「月刊バスケ創刊時から編集者として仕事をし、その後編集長になった。ちょうど能代工が勝っていく時期と月刊バスケが伸びていく時期が一緒だったので、 能代ってどんな所だろうと思っていた。はじめてきた時は真冬。雪は降るは、風はビュンビュン吹いているはで『うわ~、なんだこれは』と思ったが、なるほど な、この季節的風土が我慢強さや走るところは負けない、といった精神的なものを形づくったのではないかと感じた」
 「その意味で能代は米国のバスケットボールが育ったインディアナ州、ケンタッキー州、ノースカロライナ州に凄く似ている。気候の面も、バスケが根付いて いる面もですね。加藤広志さんという一人の先生の情熱が、ここまでのものを作って来たんでしょうけれど、そういうバックグラウンドもすごく生きてるなって 感じる」

――近年の能代工をどう見ていますか。

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 「能代って特殊な地域なんですよね。全国優勝しないと周りが納得しない。それだけ能代の皆さんの目が肥えているということかもしれないが、僕から言わせれば、それはとんでもないこと。本来なら全国大会でベスト 8、ベスト4まで行ったら万々歳。時々、いい選手が入った時に勝てたことで十分だと思う」
 「勝っている時は能代工に憧れて全国から選手が来るが、そういうことを各チームがやれば、必然的に良い人材は散らばる。だから、ものすごいスターが入った時に3年連続9冠ということができる。そのぐらいのところで頭を切り替えないと。インターハイに出られなければ『今年はだめだ』と言っていいが、そうで なければ『本当によくやった』と讃えてあげないと。そして目の肥えているところを全国で勝つことだけでなく、バスケの環境を整えるところに向けてくれれば、能代はもっと素敵な場所になると思います」

 この新聞記事は秋田から送っては来たものの、最初はどこにも乗せようなどとは考えておりませんでした。だから半年以上ほったらかしにしてありました。
 しかしこのインタビュー記事には後日談がありました。それはボクが能代カップに行っていた時に直接体験したことであり、こんなこともあるのかという状況でしたので、びっくりもしましたし、あえて掲載しようと思った次第です。
 それは5月3日の能代カップ初日、第1戦の尽誠学園対能代工戦の試合前の練習の時のことでした。
 小さな女の子を抱いた髪をひっつめにしたポニーテールのママが、
 「島本さんですね、いつも主人がお世話になっております。先日はありがとうございました」と挨拶されたのです。
 能代工のバスケ部HCの佐藤信長氏の奥様だったのです。結婚したばかりの頃にお会いしたことはあったもののだいぶ時間がたっていたので分からなくて、失礼してしまいました。しかし、先日はありがとうございました。などと言われましたが信長氏に何かした覚えはありませんので、
 「ボクが何かしでかしましたか?」とお聞きしましたら前記した新聞記事のことを話し始めたのです。
 『「あの記事が出た後、周囲の方たちからああいう考え方もあるんですね」とか「そうだよね、大変なことをやっているんだよね」と言う方々が増えてきたん です。それまでは何で勝てないんだ、指導力がないんじゃないか、だめなコーチだ、ということしか聞こえてきませんでした。でも、少し当たりが柔らかくなっ てきたんですよ。それで思わずありがとうございましたと言う言葉が出たんです』というのです。
 ボクは思ったことを言ったまでですし、アメリカのカレッジでもUCLAやインディアナ、ケンタッキー、UNCのコーチも同じ状況だということを知ってお りましたので奥さんにお話しました。少しは納得していただけたのでは、と思っています。
 ともあれ能代工のスローガンというかキャッチフレーズは“必勝不敗”です。困ったものです(笑)。
 同じ市の中にある高校で能代商という野球でここ2年夏の甲子園大会に出場している学校があります。能代工が最近優勝していないこともあってか、市内の目 抜き通りでお立ち台までしつらえて壮行会をやったそうです。能代工関係者に聞いても「あんなことはなかったなぁ」と言っておりますのでやっては貰っていな かったのでしょう。しかし、たかが全国大会に出ることで(能代商の偉業についてけちをつけるものではありません)壮行会があっても、バスケットの能代工は なかったのですね。僕から言わせればそれだけ能代に住まわれている方はバスケット部が勝つことに慣れ過ぎていたのでしょう。
 日本全国のバスケをやっている高校生たちの夢は全国大会に出ることであり、その前に消え去るチームがほとんどです。全国で優勝することなど夢また夢であ ることが現実です。しかし、能代の“普通”は違っていたのです。
 能代工のHCと言う立場はどんな良いコーチにとっても非常に難しいポジションといえます。信長コーチの真価はこれから出てくるとはずです。だから、もう 少し時間を、ということですね。
 このように、自分の発言が少しでも他人様のお役に立ったということは、これ以上の喜びはなく、思わず書かせていただきました。そして今年の能代工はディ フェンスを一生懸命にやる伝統のスタイルが復活してきたように思います。楽しいバスケを展開してくれることを期待しています。
それでは次回の“なんトラ”まで御機嫌よう。