MORRISという男 – なんトラ162

 今から4年位前のこと、突然一本のメールが飛び込んできました。
まぁ、突然、いきなり、急に、とかっていうのは仕事柄あたりまえのことでしたし、編集者というものはいつ何が起こるか分からないし、いつも才能溢れる人材を探しているものなので、それに対応したわけです。そのメールの主は森岡浩志君、当時は21歳だったかな?。
バスケットボールが大好きで大好きでどうしてもそんな関連の仕事についてみたいということ。そして、京都在住の大学生で近いうちに東京に行く用事があるので、その時に是非会って欲しい。ということが主な内容でした。こういうことは良くあります。
元々人間が好きで編集者になったのですからすぐに会うことにしました。
代々木第2体育館でゲームの後に会い、食事をしつついろいろお話をしました。話を聞いて驚きました。ちょっと今までのパターンとは違っていたのです。自らをアピールすることに非常に長けているのと、行動力が凄まじいのです。大学の3年生の春休みに帰省を兼ねて出身地の岡山まで京都からドリブルをして帰ったというのです。その時の写真も持ってきていて見せてもらいましたが、まずボクが感じたのは、「ついにこんなことをやる子が出てきたのか…」というものでした。

月刊バスケットの編集長時代から、積極的に売り込みに来る人材には会って話を聞きました。玉石混交でしたが、そんな中から後に大きな仕事をしてもらった人材は何人もいます。カメラマン、ライター、編集者あらゆる分野の仕事をどんどんやってもらいました。仕事を通してその人柄を見るというのが一番確実だからです。しかし現実的には今でも関係が続いているのは、その中の10%くらいが生き残っている程度と言ってよいでしょう。

そこで、森岡君です。彼はNBAのチームで働きたいというのです。ボクも日本におけるNBAの発展してきた軌跡などについては少しは分かるし、お話も出来ますがアメリカで働きたいとなるとちょっと話が違ってきます。ボクにはその経験もないし、人づてに聞いた話でもビザを取得しなければ仕事をすることも出来ないなど、大変な難関を抱えた就職活動といえます。
ボクが彼のために役立てることは何もないというのが現実でした。ただ、話を聞いてあげることしかありません。そんな状態でしたが彼はそれからも何かあると、必ず連絡をしてくれました。卒業して東京のIT関連の会社に就職が決まると、京都から東海道をドリブルを突きながら、ダム・ダム・ダムと北上? してきたのです。
また、やってくれました。その時の感想を聞いたことがあります。通り一遍のどうってことのない質問です。「京都から東京までのドリブル行脚で何が一番大変だった?」と問うたら「箱根のお山でしたね。ボールを突くことに集中していないと谷底にボールが落ちそうになることが何度もありました。小さな石でもその上をドリブルしたりするとバウンドは大きく変わりますからね、ヒヤヒヤものでしたよ」と。言われてみれば納得はするものの、実際にやった者にしか言えない体験の談話でした。
その後、日本で仕事をしつつ、何100通もの履歴書をアメリカのプロスポーツチームに送りつけ可能性を探る日々が続いたと言います。NBAは当然、アイスホッケーやフットボールそしてMLBのマイナーリーグにも送ったようです。梨の礫(つぶて)の日が随分と続いたあと2008年の晩秋にMLBのフィラデルフィア・フィリーズの3A、ペンシルベニアのアレンタウンをフランチャイズとするリーハイヴァレー・アイアンピッグスから連絡が来て2009年に3か月間インターンを経験しました。
その経験が下地に2010―11シーズンにはNBAオクラホマシティー・サンダーで試合当日だけの契約ということだったのですがインターンをすることが出来たのです。
過去にはLAレイカーズオーナーのジェリー・バス氏の秘書・山洞節雄さん、ニュージャージー・ネッツの職員としてヨシ・岡本さん、ジュン・安永さんらがおりますが、日本の大学の出身では森岡君が初めてでしょう。もう少しでNBAの正社員の位置に手が届く所まで来ているようです。まだビザを獲得しなければならないという大仕事が残っていますが、1歩1歩ドリブルを突くつもりでやって行って貰いたいものです。
彼の夢は“アメリカ大陸ドリブル横断”だということです。日本とは比べ物にならない広大なアメリカを相手にしようとするわけですから、覚悟は決まっているでしょう。

今シーズン、NBAはどうもロックアウトに突入しそうな状況です。ということはシーズンが吹っ飛べば彼の仕事もなくなるわけなのですが、Never give upな森岡浩志ことMorris 森岡は「今までに作った人脈を生かしてMLBで実績を作り、ビザを獲得してからNBAに再チャレンジしたい」と語っていました。

写真はサンダーのプログラム・マガジンに掲載されたMorrisですが、そのスペースの取られ方を見ると、いかに彼が重用されているかが分かろうというものです。今回は一人の若者・Morrisの壮大なるトライを知っておいて戴きたくて書かせていただきました。今後の彼の動向はまたタイミングを見てレポートさせていただきます。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


なんトラ159

 6月30日、朝4時半起床。普段だったら真夜中なのに、しっかりと眼が覚めます。朝食はオーレン小屋にお願いしておにぎりを作っておいてもらい、それを持って5時11分に夏沢峠に向けて出発です。

 昨日の昼過ぎに一度リハーサル登山をやっていたので20分は登るコースでも2度目となるとなんだかすごく近く感じたものです。天気は昨日と同じく梅雨時なのに晴れ間も垣間見える状態で問題なし。雨さえ降らなければ楽なものです。5時半には峠に到着、ここでおにぎりをほおばります。梅干のおにぎりでしたがいつもは絶対食べないのに美味しい美味しい、身体が塩分を求めているのでしょう。スイスイと入って行きます。
少々霧が掛かっていましたが、時折さぁ~っと晴れて硫黄岳の爆裂火山口がみれます。
 
腹ごしらえのできたところで、ここから一気に2760mの硫黄岳の山頂を目指します。気温は18度アンダー。下界の下々の者たちは35度を上回る中で必死にお仕事、なのにわれわれはぜぇぜぇいいながらもイワカガミ、三つ葉オーレン(黄蓮)、コマクサ、ウルップ草などの高山植物を見つつ、少しずつ登っていきます。
小屋から硫黄岳山頂まで430mの差がありますから結構なもので、植物の生える限界線をも少しだけ超えます。そんなところは岩だらけ、強い風は吹くし寒い寒い。岩を円錐状に積み上げた有名なケルン(初めて実物を見ました)が20mくらいおきにありそれを目安に休みつつ登っていきました。

南八ヶ岳山系の山としては赤岳(2899m)、横岳(2829m)に次ぐ高さで3000mには満たないとはいえ気圧は結構低くて真空パックの袋はパンパン、頭は少しクラクラしていました。これが高山病になる状況かな、などと思いましたがその後元に戻りましたが、寒さも加わって間接の節々もこわばっていましたっけ。
ようやく頂上に着きましたが、自らの足でたどり着いた“わが人生最高地点”でした。それまで霧が掛かっていたのに山頂についてしばらくしたら目の前に主峰・赤岳、と左側に横岳が丸見えでした(1時間10分)。
高柳師匠は「4度目にして初めて見えたぁ~!」と大喜びしていました。
硫黄岳から硫黄岳山荘のルートの両側短いですが高山植物が豊富、ということで軽くご挨拶。この時期にしか咲かないウルップ草が見れたので、またまた師匠は興奮。ルーキーのボクはキョトンという感じでありました。

さて山頂から赤岩ノ頭(あかいわのかしら)を通って赤岳鉱泉へ、ここで昼飯。昨日の残りのパスタ・バジリコソースを食べて美濃戸山荘を通って美濃戸口・八ヶ岳山荘までず~っと、ひたすら下り。
14時35分に到着しました。小屋を出発して9時間24分。総歩数29634歩。無事バス停までたどり着きました。
この八ヶ岳山荘には沸かし湯ですがお風呂があります。ここでゆっくりと疲れを取りつつ、バスで茅野駅に向かったのです。
理想的な展開はここまででした。
茅野駅近くのお蕎麦屋さんで、食事でもしてから東京に…と思っていましたら、丁度時間が悪く休憩時間に当たって目的を果たせず――。
ここら辺りから、調子が狂い始めて来たのです。
この続きは次回の“なんトラ”で。それまでごきげんよう。


隠れた薩摩の偉人の本をまとめています。 – なんトラ161

 今、単行本の編集を必死になってやっています。編集というよりもリライトに近い作業に追いまくられているのです。
 分量はA4のテキストで40字x36行(1440字)で260枚近く400字詰めの原稿用紙で言うと940枚にはなります。膨大な量です。

 内容は“薩摩藩と宝暦治水事業”についてなのです。スポーツものならばお手の物ですが、このような歴史物となると門外漢でありますから、ひとつひとつを辞書に当たっていかねばなりませんし、旧字や江戸時代(宝暦とは1751年から1764年の年代で江戸中期にあたりますから、役260~270年前のこと)の言葉使いもたくさん出てきます。
そんな訳ですから全然進みません。このクソ暑い真夏に冷や汗物でPCに向かっている毎日です。

 書いた人は義兄、うちの奥さんの一番上のお兄さんということになります。20歳年上の鹿児島生まれの薩摩人で、2、3年前の大河ドラマの“篤姫”に関して自分の感ずる所をしたためて知り合いに配ったりしていましたが、それが評判良かったことと、薩摩の偉人は西郷隆盛や大久保利通だけではないんだ、というところから平田靭負(ひらたゆきえ)翁についてリサーチし始めたのです。
 そしてまとめはじめて、ある程度の量が書けたときにボクの所に持ってきたのです。かなりの量の参考資料を集め、読み下しつつ書いたものなので読ませて頂いたところ、なかなか面白い。そして書き手の、なぜ書くに到ったかと言うフィロソフィーがしっかりしていたので凄く引き付けられたのです。
 「頑張って書いてください。出来上がったらまた、読ませてくださいね」と話した後に相談され、お手伝いすることになってしまったのです。
「ちょっと話が大きくなりすぎて収拾が付かなくなってしまったんだけれど、どうしたものか?」
ということです。

 宝暦の治水とは、愛知県は名古屋近辺の木曽川、長良川、揖斐川というかなり大きな川の大工事のことを言います。この3つの川は俗に“暴れ川”と言われており、美濃、尾張、伊勢地方の人々は大雨や台風があると、いつも堤防が決壊しては大災害にあっていたのです。
 江戸時代の中期、その修復を徳川幕府は九州の外様の雄藩、薩摩に命じたのです。幕府にたてつく藩の筆頭のように見られていた薩摩は戦国時代より国替えがなく、77万石の大大名でしたので参勤交代+御手伝い普請(どちらももの凄くお金が掛かります)をやらされた訳なのです。
 
遠くにあるこの3つの川の普請に、300里、1200kmも離れた薩摩の人々がやらされるというまったく理不尽といっていい、凄まじい仕事だったのです。役1000人の藩士が駐在し、約100人近くが割腹や疫病で倒れました。そして40万両(1両を5万円と換算して200億円)と言う多額の費用を費やした事業だったのです。
そして、5月末には桑名を基点に史実を追う取材旅行も試みました。
言ってみれば義兄の情熱から始まった大事業の御手伝い普請にどんどんはまって行っています。
しかし実際に揖斐、長良、木曽の三川を見ましたがその水量と、川幅の広いこと。国道1号線の伊勢大橋の真ん中あたりから上流に向かった道は両側(揖斐、長良川)が満々とした水をたたえており、まるで海の中を走っているような錯覚さえ起す道筋です。そしてその先にある油島千本松の素晴らしいこと。薩摩義士の苦闘と偉業を物語るように松ヶ枝を交えています。

ボクの仕事もあと少しです。なんとか仕上げて著者校を出して少しでも前に進めるようにしたいものです。出来上がりましたらまた皆様にお知らせしたいと思います。
そう、まず薩摩人の井上先生に読んでもらわねばなりませんね。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。