NBA&アメリカン・バスケットボールの取材では相棒といって良いJorge Ribeiro(ジョージ・リベイロ)がひさしぶりにやってきました。井上さんのHPの英語版にボクと同じようなコラムを書いておりますのでご存知の方もいるかもしれません。また、月刊バスケットやHOOPでも20年以上も常任ライターを務めていますし、スラムダンク連載時には週刊少年ジャンプでIn-Your-Faceという1ページ物のNBA企画を3人でコンビを組んでやったこともありますな。

彼が日本にやってくる時は我が家である島本旅館(?)に泊まり、ボクがLAに行くとRBEIRO HOTELに泊まるといった暗黙の了解があります。
 12月11日に来日したのですが、2日間は千葉の古くからのスロベニア人の友人宅に泊まり旧交を温めて、その後の13日の来宅でした。
前もってメールで今回のスケジュールの打合せをしていましたが、たびたび「ゆっくり休みたい」というフレーズが出てきていましたので、なるべく意に沿うようにと考えました。かなりハードな日常を過ごしているようなので、ジョージからの要望にだけ応えるようにしました。疲れているんでしょうね。いつも「アメリカはToo aggressiveだから疲れる。日本のほうがボクには合っている」と言っておりました。
 彼の希望は日本の神戸での英会話学校の教え子と、またCal State University Los Angelsでの教え子たちに合うこと、そしてゆっくり仲間とバスケ談義をしたいということでした。もちろん、井上さんと久し振りに会いたいというのも入っていました。
 
 ジョージは1954年生まれ、186cm、体重は100んkgの世話好きな穏やかな人柄で、ウエストヴァージニア州の出身です。お父さんがペルーのナショナルチームでプレイしていた経験があるというバスケ好きの家柄と、地元のスター、NBAのロゴマンのモデルとしても有名なジェリー・ウエストのファンであることからダイハードなレイカーファンでもあります。
 1975年にヴァッサー・カレッジを卒業後、オハイオステイトの大学院に進みました。その時の指導教官が日本とのコネクションがあって、神戸YMCAで英語の教師を探しているというニュースを知らされたのです。それが日本との円の始まりだったようです。3年間務めた後、1979年改めてスタンフォードの大学院で東洋の宗教(主に日本)を学んだそうです。スタンフォードと言えばアメリカでもトップクラスの難関大学。なかなか入学することは難しかったのですが何とか合格。本人は「京都の清水寺で絵馬を買って願を懸けたから入れたよ」と笑っておりました。
 さらなる研究のため院が終わると奨学金を得て、1981年からICU(国際基督教大学)で勉強をしたと言います。そして後述するビジネス東京に繋がるのです。

 そしてボクと彼との付き合いは売り込みの電話からか始まりました。衛星放送の試験放送もスタートし、雑誌の中にも少しずつNBAの話題が増えてきはじめた時期です。
 「月刊バスケにNBAの原稿を書かせてもらえないだろうか? 現在ビジネス東京という外国人向けの日本のビジネス誌のライターをやっています」
 とのことでした。今のようにNBAを分かっている日本人ライターはおりませんでしたし、編集者であるボクとしては、生粋のアメリカ人のバスケ好き原稿が欲しかったので直ぐに会うことにしました。あってみた所、当時も同じような体躯・風貌で日本語は流暢。とりあえず書いてもらおうということでお付き合いが始まったのです。

 今まで、いろいろな場面でジョージとの話が出ては来ても一度もプロフィールを紹介していなかったので書かせていただきました。彼はなんとなく“達磨”さんを思わせる風貌だったので、ある時そんなことを言ったら「禅の研究から達磨を知り、その研究がライフワークになったんだよ」とも言っておりました。
 以来、ボクからジョージへのお土産は達磨グッズと梅干。彼の家の“達磨ルーム”にはどんどんコレクションが増えて行っています。そして冷蔵庫の中は梅干だらけで「もう直ぐ店を開けるよ」などといって喜んでいます。

次回のなんトラはジョージとの高崎の達磨リサーチ珍道中を書きたいと思います。
そして極端な天候に終始した2010年でしたが、来る2011年が皆様にとって良い年になりますようお祈りいたします。それでは、ごきげんよう。