飽食の時代と無駄にしない1品 – なんトラ179

われわれ人間にとってどうしても必要な食物。
この食物が十分な状態で供給されるようになったのは20世紀の中盤からだったようです。まだ、100年たっていないんですね。それまでは人類はいつもひもじい思いをしており、飢饉が常に人間の生死を決めるものでした。
乱暴な言い方をすれば、それで人口の調整が行われていたようなものといえますが、そこで生き残った人間は強い遺伝子を持った人間ということになります。
だから、そんな状況を打破するために人間の身体自体が、何でも食べられるようになっていったのです。あれが好き、これは嫌いなどと、贅沢を言っていられるほど食物がなかったのです。
ある時に、そして、その時に食べておかないと次に何時食べられるか分からない。これが常態だったのです。

世界の歴史の中でのヨーロッパと言えば先進の地域ではありますが、ひとたびペストなどの疫病がはやったり、飢饉が起こるといっぺんに数千万人が死んでしまっていたと言います。それを救ったのが、いや、それを助けたのがアメリカ大陸から持ち込まれた、とうもろこしやジャガイモでした。どこでも、どんな気候でもしっかりと根付き収穫できるこの2種の食物は、それまで小麦が中心の生活をしていたヨーロッパ世界を大きく変え、人口の増加を促し、文化、科学、工業の発展につなげていったと言えるでしょう。

さて、現代の世の中は……、特に日本の状況を見ると、う~ん。ちょっとおかしかないかい? と思うんですけどね。

とここまで書いて準備していた時う~ん、無駄がないなぁ、という生き方をまたまた、少し体験いたしました。
昨晩、早く寝たので起きたのは5時半。
色々と雑事を片付けてTREKで野川を走って7時頃近所の畑の師匠の邪魔をしに行きました。そうしたらやることが多くて、草むしり、ジャガイモ掘り、ごぼう掘り、トマト、きゅうり、ニラ、ラディッシュの収穫。これまでもジャガイモ、トマト、きゅうりなどは収穫したことはあるけれどごぼうは初めて。サトイモの葉みたいな大きな野の茎の所に写真のようなT字型のごぼう掘りの道具を打ち込んで左右に動かして引き抜きやすくします。そしてよいショ!てなぐあいです。
東京でこんなことが出来る僕は幸せですな。
そして、爽やかな風を感じながら師匠の手作りパスタ。畑から獲ってきた出来損ないのピーマン、茄子、たまねぎをオリーブオイルでいためてそこにかんづめの シーチキンをぶっこみ、しょうゆとパルメザンで仕上げ。まずは冷えたビールでお疲れ様をしました。至福のひと時であります。
1つ忘れていましたね。ちょいとすっぱいトマトも入っていました。これがまた良くパスタに合うんです。そんな昼飯をやっているとお隣の畑の第2師匠がきゅうりと手前味噌、茄子の漬物を持って乱入。話がどんどんはずみます。
夏野菜の時期にはいつもこんな感じでの交歓があります。こたえられん。

そうだ、こんな時期にしか出来ない贅沢な1品の作り方をご披露いたしましょう(3~6人分)。傷だらけのたまねぎ、茄子、トマトを使ってください。
必要なものはたまねぎ(4~8個)、茄子(3~6本)、トマト(4~8個)、マギーブイヨン(3~6個)、牛すじ肉(100~200g)、そして大きめの鍋。
たまねぎはむいて、それ以外もすべて1~1.5cmに輪切りです。鍋にまず①たまねぎ、②茄子、③トマトの順に乗せていく。茄子とトマトの間に冷蔵庫にあるクズ野菜を入れてもよし。さらにその上に④すじ肉、⑤とろけるチーズ、⑥マギーブイヨンをのせて、ふたをする。
そしてただひたすらトロ火で3~4時間煮込んで出来上がり。
これ以外何も入れません。実に自然な甘さが出たSOUPの出来上がりです。そのまま食べても良し。パスタにかけても良しの優れものです。

食い物のことになるとどうもとっ散らかった原稿になってしまいます。すみません。是非だまされたと思って試してください。
それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


2人のNBAベストドレッサーコーチ – なんトラ178

◆「私が退室する時に『また会おう』と言った。それが彼を見た最後だった。私は決して忘れない。この賞を受賞することはとても光栄だ」(ヒート社長のパット・ライリー)
チャック・デイリー賞を受賞して09年にデイリーを病室に見舞った時を思い出して。同賞は全米コーチ協会が選考する。「デイリーはいつもこざっぱりとしてスタイリッシュだった。私たちは服装についてあれこれと話すのが大好きだった」
◆「彼の存在はチームにとって大きい。コーチとして、エグゼクティブとして多くの経験がある」(ヒートのレブロン・ジェームズ)
「チャック・デイリーはいつもライリーのことをベストの中のベストだ、と賞賛していた」(マーベリックスHCのリック・カーライル)
チャック・デイリー賞を受賞したパット・ライリーを賞賛して。カーライルはデイリーの下でアシスタントを勤めたことがあった。

この2つの文章は私がお世話役をさせていただいているバスケ好きの仲間の集まるHOOPHYSTERIAというサークルで、毎月発行している会報BULLETINの今月号のQUOTEという企画の中のものです。NBAをはじめNCAA、そして日本のバスケと、あらゆる興味のある題材にはかなり突っ込んだ内容の企画の原稿があります。すべて、メンバーの皆さんが一生懸命に調べて書いてくださっています。
そんな中に書かれたチャック・デイリーとパット・ライリー、80年代から90年代にかけてのNBAはこの2人を抜きには語ることは出来ません。
まず、パット・ライリーがレイカーズのショウタイム・バスケットボールをマジック・ジョンソン、カリーム・アブドゥル=ジャバーらを中心に確立させました。1980、82、85年に優勝。そしてその全盛期が1987、88年のバック・トゥー・バック(2連覇)です。
僕にとってはその他のノーム・ニクソン、ジェームズ・ウォージー、マイケル・クーパー、AC・グリーン、カート・ランビス、バイロン・スコットなどの名前は資料を調べるまでもなくスラスラと出てきます。みな華やかでアスレティシズムにあふれていましたね。
 そんな中でもヘッドコーチのライリーは本当にカッコ良かった。いつもアルマーニのスーツでビシッときめて金髪をオールバックにした姿は惚れ惚れと見とれていました。チャック・デイリーが「ベストの中のベストだ」と絶賛して当然だと思います。
 このデイリーの発言には2つの意味が含まれていたものと思われます。1つは勝利の方程式を確立したこと。もう1つはそのファッショナブルさだったと思います。
プロはプロを知ると言いますが、このチャック・デイリー、第2次世界大戦に応酬されていますが、その戦後の占領時の日本に来て軍の仕事をしていたのがその理由です。
 彼はものすごい日本通であり、日本人の真面目さや器用さを良く知っていました。オリジナルドリームチームを率いて金メダルを奪還したあと、1993年に“チャンピオンシップ・キャンプ”で日本の高校生に指導のため来日しました。
その時に「今日の日本の自動車や家電、ITの発展は予想通りだよ」と言ったのです。ですから「なぜ、そんなことが分かったのですか?」と聞くと「僕はおしゃれが大好きで日本に駐留していた時、カシミヤのスーツやコートを良く誂(あつら)えたんだ。何しろ1ドルが360円位だったから20代の僕の軍の給料で無理なく作れたんだ。その時に日本人のテイラーの職人のすばらしい技術に触れたんだよ、だからなのさ」と答えたのです。
確かにライリーほどのスタイリッシュさはなかったものの、質の良い上品なしつらえのジャケットをいつも着ていましたっけ。
レイカーズが勝った後、次はデイリーのバッドボーイズのピストンズのバック・トゥー・バックでした。アイザイア・トーマス、ジョー・デューマース、デニス・ロドマン、ビル・レインビアー、ジョン・サリー等の個性あふるるプレイヤーをチームとして機能させる手腕は見事でした。
おそらくパット・ライリーが年上であれば「デイリーこそベストの中のベストだ」といったに違いありません。同じ嗜好を持った二人の戦士の縁と友情は深かったのですね。
嬉しい話です。二人の名前が出たとたんにデイリーのインタビューの内容を思い出しました。こんな友情もあるんですね。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


嬉しい、10年ぶりの再会。 – なんトラ177

2012年5月5日現在、199cm、78kg。
日本人バスケットボール・プレイヤーとしては大きい部類に入ることになるでしょう。でも、高校3年生になったばかりであり、まだ身長が伸びているということですので、どこまで行くんでしょう。渡邊雄太君は。
今月はそんな前途有望な青年?、いやまだ少年?のお話です。
通常、日本人の身長の伸びはもちろんそれぞれのDNAによって異なってくるのでしょうが中学生のころに10~15cmほど成長して、171cm位になると言われています。女性は12、3cm低い158cm位。これが現在の日本人の平均身長といえましょう。
まぁ、高校生になっても伸びる子はいますが、大体が中学生のころに伸びきってしまいます。バスケットボールをやろうとする子は背が大きかったから勧められてとか、背が大きくなりたいからということで部活に入部してくる子が多いと言えます。これは洋の東西を問わず同じようなものと考えてよいと思います。
しかし、この199cmの渡邊雄太君は違いました。小学生の頃は160cmに届かず、中学2年生の頃は175cm、3年生の夏には母親の久美(旧姓久保田、元シャンソン化粧品で活躍、ナショナルチームのキャプテン)さんをようやく抜き、180cmを越えた位の中学バスケのプレイヤーであれば普通よりちょっと大きいかなという程度でした。しかし、ここから尽誠学園へ入学する頃まで毎月1cm伸びていたと言います。入学試験のときに久しぶりに会ったまわりは「ウオッ! でかくなってる!」とびっくりしたそうです。
中3まで170cm台ということはそれまでのポジションはポイントガードかシューティングガード。ボール運びとパス、そしてタイミングを見たシュート中心のプレイスタイルです、それがここに来て生きてきました。高校に入ってからもさらに伸びてメジャーデビュー(こんな言葉がふさわしいかどうかは分からんが…)の2年生時の昨年のウインターカップ(WC)では無印だっただけに、周囲をそのプレイ振りでびっくりさせたのは記憶に新しい所です。
ボクは彼の成長の仕方にアメリカ人の子供たちの成長のパターンを見ました。アメリカにはよく2m以上でもボールハンドリングが上手くガードの出来るプレイヤーが出てきます。これは高校高学年から急に成長すると言う特性から出てくるものと思われます。古くはマジック・ジョンソンなどは良い例で、最近では2mのガードも当たり前の状態です。日本のように子供の頃に大きければセンターと言う考え方で行っているとマジックや雄太君のようなプレイヤーはまず現れてはきませんね。
若き友人のH君が能代カップを一緒に見ている時、面白い表現をしました。[雄太はウインターカップの時より顔が小さくなっていますよ]と言うのです。おそらく冬以来のトレーニングが生きてきて肩幅や胸板が厚くなってきているからなのでしょう。
小学校4、5年生の150cm位の子が高松のファイブスターキャンプに来て一生懸命ハンドリングやドリブルをやっていたのはつい昨日のことのようです。何時大きくなるか分からないと言う良い例が雄太君でしょう。5番(センター)のプレイはいつでも覚えられます。彼を見ていると若年時にしか取得できないプレイをミニの指導者の方にはぜひ、教えておいて欲しいと思ってしまいます。

それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。


こんなことってあるんですね。 – なんトラ176

 今回の“なんトラ”は昨年、秋田の北部をカバーするローカル新聞“北羽新報”の記事の転載をしてみたいと思います。前回のミュージアムのお知らせととも に、なぜそうなったかということが上手くまとめていただけていた記事だったのでそう思ったのです。そしてそれがひょんな方向に波及して…。
●新聞記事より(秋田・北羽新報。2011.9.2)
☆この人にインタビュー
バスケの街に“恩返し”
人を呼び込む力になれば
 バスケットボール関連の貴重な資料を能代市に寄贈したバスケ 専門誌“月刊バスケットボール”元編集長の島本和彦さん(65)。寄贈品は来た東北インターハイ期間中にしない2か所に展示され、バスケファンの話題と なった。寄贈にこめられた思いやバスケの街・能代への感想を聞いた。(聞き手・大柄沙織)
――600点以上のバスケ関連資料を市に寄贈されました。そのきっかけは。
 「月刊バスケ時代は能代工高元監督の加藤広志先生と一緒に楽しい仕事をさせてもらった。仕事で集めたこれらの資料をどうしようかと考えた時に、当時お世 話になったのが能代工のOBだったり、能代の人たちだったので何か恩返しができればと思い寄贈した」
 能代はバスケが好きな人が集まってくるとてもよい場所。私の周りのバスケ好きも『一度、能代に行ってみたい』という人がたくさんいる。能代カップの際に は全国からたくさんの人が集まって来るが、試合だけ、能代工だけじゃなくもう一押し、能代に人を呼び込む何かが欲しい。バスケ関連の資料を集めることで誰 かが能代に来てくれるのではないかと。そういったものに力になれればと思っている」

――今回の展示に思うことは。
 「自分が必要で集めてきたものをもう一度皆さんに見てもらえたということは凄く幸せ。書籍類が多いがリトグラフも何点かある。日本でバスケットボールを 主題にした絵はあまりない。米国には、ここまでこういう風に表すのかというようなものがある。リトグラフはロサンジェルス・レイカーズのオーナーが持って いたものをもらった。ボク一人で眺めていてもうれしいけど、皆さんに見てもらいたい」

――島本さんにとって能代とは。
 「月刊バスケ創刊時から編集者として仕事をし、その後編集長になった。ちょうど能代工が勝っていく時期と月刊バスケが伸びていく時期が一緒だったので、 能代ってどんな所だろうと思っていた。はじめてきた時は真冬。雪は降るは、風はビュンビュン吹いているはで『うわ~、なんだこれは』と思ったが、なるほど な、この季節的風土が我慢強さや走るところは負けない、といった精神的なものを形づくったのではないかと感じた」
 「その意味で能代は米国のバスケットボールが育ったインディアナ州、ケンタッキー州、ノースカロライナ州に凄く似ている。気候の面も、バスケが根付いて いる面もですね。加藤広志さんという一人の先生の情熱が、ここまでのものを作って来たんでしょうけれど、そういうバックグラウンドもすごく生きてるなって 感じる」

――近年の能代工をどう見ていますか。

176

 「能代って特殊な地域なんですよね。全国優勝しないと周りが納得しない。それだけ能代の皆さんの目が肥えているということかもしれないが、僕から言わせれば、それはとんでもないこと。本来なら全国大会でベスト 8、ベスト4まで行ったら万々歳。時々、いい選手が入った時に勝てたことで十分だと思う」
 「勝っている時は能代工に憧れて全国から選手が来るが、そういうことを各チームがやれば、必然的に良い人材は散らばる。だから、ものすごいスターが入った時に3年連続9冠ということができる。そのぐらいのところで頭を切り替えないと。インターハイに出られなければ『今年はだめだ』と言っていいが、そうで なければ『本当によくやった』と讃えてあげないと。そして目の肥えているところを全国で勝つことだけでなく、バスケの環境を整えるところに向けてくれれば、能代はもっと素敵な場所になると思います」

 この新聞記事は秋田から送っては来たものの、最初はどこにも乗せようなどとは考えておりませんでした。だから半年以上ほったらかしにしてありました。
 しかしこのインタビュー記事には後日談がありました。それはボクが能代カップに行っていた時に直接体験したことであり、こんなこともあるのかという状況でしたので、びっくりもしましたし、あえて掲載しようと思った次第です。
 それは5月3日の能代カップ初日、第1戦の尽誠学園対能代工戦の試合前の練習の時のことでした。
 小さな女の子を抱いた髪をひっつめにしたポニーテールのママが、
 「島本さんですね、いつも主人がお世話になっております。先日はありがとうございました」と挨拶されたのです。
 能代工のバスケ部HCの佐藤信長氏の奥様だったのです。結婚したばかりの頃にお会いしたことはあったもののだいぶ時間がたっていたので分からなくて、失礼してしまいました。しかし、先日はありがとうございました。などと言われましたが信長氏に何かした覚えはありませんので、
 「ボクが何かしでかしましたか?」とお聞きしましたら前記した新聞記事のことを話し始めたのです。
 『「あの記事が出た後、周囲の方たちからああいう考え方もあるんですね」とか「そうだよね、大変なことをやっているんだよね」と言う方々が増えてきたん です。それまでは何で勝てないんだ、指導力がないんじゃないか、だめなコーチだ、ということしか聞こえてきませんでした。でも、少し当たりが柔らかくなっ てきたんですよ。それで思わずありがとうございましたと言う言葉が出たんです』というのです。
 ボクは思ったことを言ったまでですし、アメリカのカレッジでもUCLAやインディアナ、ケンタッキー、UNCのコーチも同じ状況だということを知ってお りましたので奥さんにお話しました。少しは納得していただけたのでは、と思っています。
 ともあれ能代工のスローガンというかキャッチフレーズは“必勝不敗”です。困ったものです(笑)。
 同じ市の中にある高校で能代商という野球でここ2年夏の甲子園大会に出場している学校があります。能代工が最近優勝していないこともあってか、市内の目 抜き通りでお立ち台までしつらえて壮行会をやったそうです。能代工関係者に聞いても「あんなことはなかったなぁ」と言っておりますのでやっては貰っていな かったのでしょう。しかし、たかが全国大会に出ることで(能代商の偉業についてけちをつけるものではありません)壮行会があっても、バスケットの能代工は なかったのですね。僕から言わせればそれだけ能代に住まわれている方はバスケット部が勝つことに慣れ過ぎていたのでしょう。
 日本全国のバスケをやっている高校生たちの夢は全国大会に出ることであり、その前に消え去るチームがほとんどです。全国で優勝することなど夢また夢であ ることが現実です。しかし、能代の“普通”は違っていたのです。
 能代工のHCと言う立場はどんな良いコーチにとっても非常に難しいポジションといえます。信長コーチの真価はこれから出てくるとはずです。だから、もう 少し時間を、ということですね。
 このように、自分の発言が少しでも他人様のお役に立ったということは、これ以上の喜びはなく、思わず書かせていただきました。そして今年の能代工はディ フェンスを一生懸命にやる伝統のスタイルが復活してきたように思います。楽しいバスケを展開してくれることを期待しています。
それでは次回の“なんトラ”まで御機嫌よう。


能代バスケットボール ミュージアム&ライブラリーが出来ました。 – なんトラ175

5月の1日から6日まで能代に行ってきました。
能代バスケミュージアム&ライブラリーのオープニングでした。
3日からは能代カップがありましたし、参加チームのみなさんも見に来てくれたようです。 能代工高、能代カップ、バスケの街・能代の第3弾の企画で、内容は徐々に充実させていきたいと思っています。だって、ボクの長年温めてきたライフワークの企画ですから。

 そもそもの始まりは月刊バスケの著者でもある水谷豊先生から「こんな所がアメリカにはあるんですよ」とマサチューセッツ州スプリングフィールドにあるネイスミス・メモリアル・ホール・オブ・フェイム(バスケットボール殿堂)のお話を聞いたことからでした。先生の専門のバスケットボールの歴史をたどる連載コラムの中で何度も触れられていましたし、何時の間にやら行ってもいないのに、いろいろな写真や資料などを見るうちにほぼ内容を把握してしまっているボクがいました。
 その後NBAの取材時のコースに入れて5回ほど現地を訪ねもしました。NHKの番組の中で紹介もさせて貰ったこともあります。そしてジョージと井上さんと3人でNBAのフランチャイズを巡るMarch Madness Tourにひっかけて、オハイオ州キャントンのプロフットボール殿堂、カナダのトロントのアイスホッケー殿堂などをも見学してまわったものです。
 
そんなことをしているうちに、なぜ日本にはないのだろう? という疑問が湧きはじめました。オリンピックを中心とした秩父宮スポーツ博物館や後楽園に野球博物館はありますが、その他は聞いたこともありません。最近サッカー協会が資料館を作ったとききましたが、バスケにもあっていいはずだと考えたのです。
バスケを盛んにするための良いツールが、アメリカにあって日本にないのは許せないと思っていたので、これまでも3on3をやってみたり、バスケットカードを紹介してみたり、バスケキャンプもやってみたりしました。そして昨年の12月には“バスケットボールの日”のイベントもすることが出来ました。

ちょうどボクの仕事場にある40年間に渡って集まってきた資料も整理する時期に来ていましたので、能代出身のIT関連の会社の代表をやっている石井さんという若き友人に相談した所、「皆に膨大な資料を見てもらうようなものを作りましょうよ」ということになり、そこからトントン拍子に話が進み、能代市も乗ってくださり今回のオープニングに至ったのです。
私だけのものではまだまだどうにもならない量ですが、このバスケ界初のムーヴメントに賛同してくださる方も多く、徐々に貴重なる資料が集まってきています。先日も「バスケミュージアムに寄贈したいNCAAメディアガイドやNBAメディアノートなどがあります。スペースが許せば、寄贈したいと思います!」などというメールが友人から来ました。また、しばらくぶりに会ったファイブスターキャンプのパストキャンパーの網野友雄君はミュージアムの話をした所、即シューズにオートグラフ(サイン)を入れて寄付をしてくれました。こんな感じで集まってくれるといいなぁと思っています。

全国のバスケ好きの方々、時間があったら能代まで来てください。日本の世界のNBAなどの資料が能代バスケミュージアムに収められたのです。すべてバスケに囲まれることの出来る空間が出来、いつでもバスケに浸れるひとつの拠点が出現したのです。
ボクも年に3~4回は能代に行きたいと思っています。そんなときにたまたま遭遇した時には来館した方とあらゆる種類のバスケ話をしたいと思っています。
能代市の人口はボクの住む狛江市よりちょっと少ない6万弱。面積は日本で2番目に小さい狛江と違って、東京23区くらいの広さがありますので保管する場所はいっぱいあるはずです(笑)。後、必要なのはバスケを愛する皆様の無理のないドーネーション(寄付)です。それは物と寄付金ということで、いつでも受け付けております。そしてじっくりと少しずつ充実させていきたいと考えています。 だから心配しないでどんどん送ってください。
一人で眺めてニタニタしているのではバスケの父・ジェームス・ネイスミス師に申し訳ないとボクは思ったことから出た行動です。
これからも直接お願いすることもあると思いますが、その時は「やだ!」などと言わないでください(笑)。お願いいたします。
住所は〒016-0821 秋田県能代市畠町11番23号 能代バスケミュージアム 電話 0185-88-8876 FAX 0185-88-8875です。
それでは次回の“なんトラ”までごきげんよう。